菅総理による日本学術会議会員推薦拒否に思う

菅総理は、日本学術会議から推薦された105人のうち6人の任命を拒否したまま、未だにその理由をあきらかにしていません。
しかも、税金が使われている以上行革の対象であり、日本会議の在り方の検討が必要だと、問題のすり替えを行う始末。
任命拒否が孕む危険性は言わずもがなですが、敢えて私は、「税金の使われ方」という観点からこの問題を考えてみたいと思います。

税金の使われ方を語るときに、「費用対効果」で全てを語ろうとする風潮、すごく危険です。

費用対効果を考える必要があるところ、つまり、投資的な意味合いのある政策はもちろんありますが、一方で、公共の大事な役割として「国民の生命財産を守り、基本的人権を保障する」という、大事な役割があります。
むしろ、わたしなんぞは、投資的なものは、なるべく自己責任で、民間に委ねていいと思いますし、人の命や尊厳の部分は、費用対効果ではなく、公共が保障をしていくこととして、税金を投入すべき義務がある(予算的には義務的経費、といいますもんね)と思います。

そう考えると、教育や学問といった分野は、投資的なものではなく、まさに義務的なもの、国民に当然の権利として保障すべきものに当たります。
わたしたちには、科学的な根拠に基づいた調査や研究に裏付けれた客観的な知識や学問を知る権利も、またそうした学問を自由に研究し追求する学ぶ権利も、「基本的人権」として保障されています。
この権利は、その時の政府の意向や社会状況で変えられたり制限されたりしてよいものではありません。

今、話題になっている、この会議の予算が10億円、という話も、国家予算が100兆円規模であることを考えると、決して高いとは言えないですし、他の先進国と比べても低いようです。
つまり、私たち国民の根幹をなす(この会議は、学者の国会とも言われています)知の財産が10億円であることを、私たち国民がどう捉えるか、が問われています。

知が、政治によってねじ曲げられたために起きた悲劇の歴史を、繰り返してはなりません。