終戦記念日に、戦争の加害と被害を考える

会場の様子。たくさんの方が集まりました。

会場の様子。たくさんの方が集まりました。

 8月14日に行われた「8・15を考える集い」。今年は6年目ということで、「戦争と平和を考える集い」として、写真展示とシンポジウムが行われました。
 今回は、敬和学園大学教員の加納実紀代さん、NPO平塚らいてうの会会長の米田佐代子さん、そして私とともに@あしがらの代表運営委員を務める松本茂さんの3人の方のお話を聞きながら、戦争と平和についてを共に考えるという企画でした。

 終戦時、加納さんは5歳、米田さん、松本さんは10歳。加納さんからは「5歳のこどもに戦争責任はあるか」という大きな問いかけがありました。
 米田さんのお母様は、米田さんのお兄さんが少年兵として志願することを止めることができず、16歳で戦死させたことを、「自分は戦争犯罪者」という思いを持っていらしたということでした。「女が学問をしないとまた戦争になったときにだまされる」、「本当のことを知っていたら息子を死なせずにすんだ」と言っていたそうです。
 加納さんは広島で被爆をし、「ヒロシマは、被害者であるということだけでは済まない存在」として、広島が軍都であったという事実、広島第5師団が行った日本占領下での残虐性にたいして、シンガポール歴史博物館では、その広島が、最後は原爆を落とされる、という展示のされ方をしていることなどにも触れました。

加害と被害の二面性をどう乗り越えるのか。今回の集いの大きなテーマでした。

 先の米田さんの問いかけに対する私の答えはやはり「ある」のです。それは今を生きる私たちにも逃れることなど出来ないくらいに「ある」と、私は考えています。
 戦争は、ある日突然爆弾が降ってくるから起きるのではありません。そのずっと前から、日々の暮らしや政治の小さな動きの中に、少しずつ進められていくことなのです。
 戦争を知らない世代である私たちの戦争責任は、2度と再び、戦争をしないこと、戦争によって誰かを死なせないことです。しかし実際には、今日も世界のどこかで、戦争や内戦やテロ、その後も続くさまざまな混乱によって、誰かが銃を持ち、誰かが血を流し、誰かが苦しんでいる。その一つ一つさえも、私たちにつながっていると感じています。
 今日、なにを食べ、何を着、なにを話したか。どんな政治を望み、どんな政策を支持したか。暮らしのすべてが、世界すべての戦争へと続く道を作りもし、また拒みもすると考えています。

 会場は多くの人で埋まりましたが、進行の方が「今日は若い人も参加しています」と言って紹介したのは、私と同世代の友人でした。おそらく会場の中で、同年代は私を含めても3,4人だったと思います。平和を考えるなかで、私たち世代が、果たして「若い」ということでいいのか、という思いがしました。8月の、子どもが夏休みという時期に、平和の集いに参加する母親というのは、私の身の回りには多い方だと思いますが、はっきり言って、珍しい人です。ここでは平和について考えている私でさえ、一歩外に出て、同じ世代のお母さんたちと、改めて戦争について語ることはめったにありません。議員である私でさえそうなのですから、他の人は、もっとだと思います。
 もしもこの国が、戦後65年間、平和について真面目に取り組んできたというのなら、この会場はもっと多くの30代20代が参加していてもおかしくないのではないか。もっと日常的に平和について、戦争について語られても良いのではないか。
 今の日本の状況が、決して楽観視できない状況であるなかで、私たちの上の世代の方たちが取り組んできた平和への道を、たったこれだけの人たちしか受け継いでいない、という事実と、受け継がれた私たち世代が、平和を作る(現状は平和だとは言えないと思うので、守るのではなく)ということを、次の世代にきっちりとつなげていかなければいけないという責任の重さを感じつつ、それはとても厳しい道だなあ、と会場を見渡しながら感じてしまいました。

 松本さんは朝鮮半島で終戦を迎え、国家が一夜にして消滅し民衆を捨て、すべての制度が一斉に「溶けて」しまった瞬間を体験しました。
国や制度は、個人が何もしなくても、誰かが作ってくれて、いつでも安定してそこに存在しているものではない、ということを、思い知らせれたことだと思います。だからこそ、私たちは「民主主義」というやり方で、「自治」をしなければならない、と私は思います。

 先日私たちは、地方分権と市民自治を目指す、新しい市民政治団体を立ち上げました。なんのためにと言われれば、まさに平和を構築するためです。
国が一枚岩となることを拒み、自分で政治を作っていくことを、次の世代に見せて、伝えて、その勇気を持ってもらわなければならないと思うからです。
それは馬鹿らしい、亀の歩みのような一歩一歩かもしれないけれども、それでも進めていかなければならない、と思うからです。
 私たちはすでに、いつか来た道を歩んでいる。
過去の戦争から私たちが学ぶことは、単に「戦争は悲惨だ」ということだけではなく、何が戦争へと向かわせたのか、その真実を知り、今日の生活の中から注意深く見つけ出していく視点を持ち、それを拒否していくことにほかなりません。

 たとえば、「核廃絶」は宣言したけれど、じゃあ平和利用の原発ならいいのか?経済が回復すれば、CO2が削減できれば、問題はないのか?
また教育にしても、学力が上がれば、個人の人権は学校で教えなくてもいいのか?障害のある子どもが、排除されていていいのか?
家族の在り方は?「良い母親」は?戸籍制度は?DVは?ジェンダーは?児童虐待は?ブランド品は?100円ショップは?農薬は?医療制度は?予防接種は?ワーキングプアは?引きこもりは?ニートは?電磁波は?ごみは?化学物質は?
考えていけば、すべての暮らしの問題の中に、平和の問題が隠されている、と私は思います。そのすべてを、綺麗に並べてしまうことは、とても難しいことです。暮らす人の思いと、人と人とのつながりとがぐちゃぐちゃに交錯する中に入って、自分も手を汚しながらも、やっていくしかないと、私は思います。
それこそが、私たち世代、そして私自身に課せられた「戦争責任」だと改めて考えさせられた集いでした。

終戦記念日に、戦争の加害と被害を考える”へ6件のコメント

  1. 松本茂 より:

    「すべての暮らしの問題の中に、平和の問題が隠されている」!!!!
    私は、「人権」という抽象的な概念語で話してしまいましたが、この言い回しは、すばらしい。平和はいつも隠されているのです。「国の嘘」を見つけ続けましょう。
    今日、私に「敬老会へのお誘い」がきました。予想もしていなかった事態、「敬老」という欺瞞で、怒りと焦りと恥辱に打ちひしがれました。

  2. うろ子 より:

    もう若くないよね。錯覚しちゃうね。
    加納さん、米田さん、松本さんのお話、本当に聴けてよかったと思っています。
    今と関係ない昔のことじゃなくて、今に全部つながっていることだって。

    だから、ナオちゃんもわたしも、できることやるんだよ。たのしくね!

  3. naomi_sasaki より:

    松本さん
    ありがとうございます。

    「朝鮮半島は、いまだに分断されたままです。戦争は、終わっていないのです」という松本さんの言葉に、私たちの戦争が本当に終わるのはいつなのか、改めて考えさせられました。

    人権とジェンダーと平和。私にとって深いつながりのあるテーマを、丁寧に考えることが出来て、感謝しています。

  4. naomi_sasaki より:

    「たのしく」ということで、本当はいいのかなーと思いつつ、
    でも、次の世代に引き継ぐために、知恵を出し合うしかないんだよね。

    がんばろう、がんばろう。

    うろこさんががんばっているから、私もがんばれるんだものね。
    ヒロシマの報告読みましたよ!
    ありがとう!

  5. 和田美恵子 より:

    「暮らしの生活のすべてが戦争に続きもし、また拒みもする」ほんとに同感です。
    私は、毎日の生活に必要なお買い物を、何を買い、何を買わないかの選択が平和にもつながり、戦争にもつながると考えています。買い物は行動です・・誰もが毎日する・・。

  6. 佐々木ナオミ より:

    和田さん、ありがとうございます。
    フェアトレードや地産地消にこだわって買い物をしていますが、それも平和への取り組みの一つです。
    私たちは、ただ、安いものを手に取るだけではなく、賢い消費者としてその品物がどこにつながっているのかを知っていくことが大切ですね。
    和田さんに教えていただいたことです。

    でも、フェアトレードは可愛くて、気持ちよくて、たのしい、ということも大事なこと。
    物語のある品物を身につける喜び。
    それも、和田さんの地道な活動から学んだことです。

    ありがとうございます。
    そして、平和のためにがんばりましょう。

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