言葉を考える
以前、教育基本法の改正のときに「『改悪』というのは使わないようにしている」ということを書きました。そうしたら、知り合いのtakeさんがブログで同じことを書いてらした。
言葉というのはとても大切ですね。特に文章の中では。わたしもない頭を絞って考え考え言葉を使っています。それでも、ダメなときはダメですけど(笑)
その中で「障害者」という言葉について書かれていました。takeさんは「害」の字を使わないようにしているということでした。
「障害者」という言葉については、以前小児科医の山田真さんが、「障」の字だって「差し障る」という意味だし、今よく使われているものも、大して意味は変わらない。「障害」は社会のありようでいくらでも変わる。問題は社会の仕組みそのものなのに、文字を変えてもそれがごまかされるだけで、何の問題解決にもならない。というようなことを書いていらっしゃるのを読んで、とても納得しました。山田さんは、今でもこだわって「障害者」という言葉を使っているようです。
一昔前は、それこそたくさんの差別用語があったし、でもそれが使えなくなって、差別がなくなったのか、と言われるとよく分からない気がします。わたし達は、「言ってはいけない言葉」を飲み込みながら同時に気持ちのほうでも「関わってはいけない人」とみなしてしまったのではないか。語られてはいけない人。見てはならない人。
以前、筒井康隆氏の「言葉狩り」の事件がありました。あれもとても難しい問題でした
でも、本人に向かって「障害者」とはいいませんよ、もちろん。名前を呼びますよ。また、「害を使わないで」と言われたときにはそうします。
他人に対して、自分のパートナーをなんて呼ぶか、というのも難しいですね。「つれあい」と呼ぼうとしましたが、それじゃ漫才みたいでいまひとつ伝わらない。いまは「夫」に落ちついていますが、たまにびっくりされます。「おとうさん」というのもどうか。わたしの父ですか?と思う。「主人」というのも、わたしゃ奴隷か、と思うし。相手のパートナーのことは、折衷案で「だんなさま」というようにしています。
ママ友達ともなるべく下の名前で呼ぶようにしています。夫の付属物ではないし、私は私なのです、という意思表示でもあります。仲のよい友人同士では、ほとんど下の名前で呼び合っています(その人の夫も含めて)。
それからもう1つ。「正しい日本語」ということについて。
言葉は生き物だとわたしは思います。正しい日本語にこだわることよりも、今の子ども達の新しい造語がとても面白くて、子ども達と子ども達の言葉で話します。最近のお気に入りは「普通に」というのかな。「普通においしい」とか。つまり「お世辞や大げさではなく、素直に」というような意味でしょうか。言葉が飾られすぎて、ややこしいことになっている大人社会を茶化しているようで「うまい言い方するなー」と感心してしまいました。先日も、久しぶりで卒業生とそのお母様に会って、その子(女)はすぐに「マジっすか!?」と言うので、わたしもつい「マジっす!」と言ってしまうので、お母様は「何じゃこの人は!」と思ったことでしょう。ほんと、こんな大人でスミマセン。
もちろん本来の言葉が持つ魅力もあります。ただ、「正しく日本語が使えないなんて!」「そんなだから日本人はだめになった」的な発想はどうかと思うのです。
などなど、takeさんに触発されて、言葉について思っていることをいろいろ書いてみました。
今日はうちの親が来て、みんなで新しい年をお祝いしました。
“言葉を考える”へ7件のコメント
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言葉、文章
このブログで、佐々木さんて、そうだったんだ。とか、いろいろ知りました。
内容より、使う言葉、文体の方かな。
Take的【害】と【碍】の違い
僕も文字狩りに関しては反対で、相手が不愉快にならないなら、たとえば【婦人】と言う言葉などはいいと思いますし、【部落】も被差別部落と言う差別を持った言い方以外で農村の集落を使いことならいいと思います。
ただ【害】は、文字の持つ意味は、【婦】がほうきであったり、【部落】が集落であるのと違うと思うんですよ。
【害】は害なんですし、【悪魔(と名付けようとして許可されなかった事例がありましたが)】は悪魔なんです。文字通りの意味しかないんです。
そこには悪意しかないんです。
ですから害はだめで、同じような碍はOKだと思っています。
Unknown
PS
差し障るなら、ともにその妨げをなくそう、と言うのは、その人が変わるのではなく、社会のほうが変わることですよね?
Unknown
もちろんです。
「障害は社会のありようで変わる」と山田さんは書いていらっしゃるし、私もそう思います。
駅にエレベーターを付ける、道路の段差を無くす、子どものときから一緒の時間を過ごすなどなど、できることはたくさんあります。
山田さんたちは、「障害児を普通学級へ」という運動をされています。山田さんには、脳性まひのお子さんがいますが、ずっと普通学校にこだわって、高校まで普通高校を卒業しました。いまは、ボランティアさんに手伝ってもらいながら一人暮らしをしているそうです。
それは、山田さんのようなすごい人だから出来たことだ、と言われますが、しかし、そこにこだわってきた山田さんの考え方には学ぶ所がとても多く、また、こうした運動があって、障害のある子ども達が普通級で過ごすということが当たり前の風景になりつつあるのだと思います。
私と夫が営む小さな学習塾でも、障害のある子ども達が通ってきています。何か特別なことをするわけではないのですが、なんだか楽しい時間を過ごせています。もちろん、どんな障害のある子どもでもというわけにはいきませんが、「勉強したい」と思う気持ちがあれば、その都度私たちができることを考えるしかないな、と思っています。
最近の主流はたぶん「障がい」とひらがなにするのだとおもいます。
ただ、「障害」をめぐる言葉の問題を知らない人が、「障害」という言葉を使ったことで「差別者」と決めつけられてしまうのも困るなと思います。
今の社会のありようはまさしく「障害者」なのだと私は思います。社会の意識が、障害者の存在をもっと受け入れ、ともに暮らすための知恵を出し合えば、障害をもっていることは「障害」ではなくなっていくのではと思います。それにはまず、障害者が身近な存在になっていくことが一番の早道だと思っています。
「悪魔」君の事件ありましたね。ほとんど内容は知らないのですが。
あのご両親はどうして悪魔とつけたかったのでしょうか。それも、ただふざけてとか、子どもの不幸を願って、というならば、あんなに大騒ぎになるほど頑張らなかったのかもしれません。なにか、彼らなりの「悪魔」に対する前向きなイメージがあったのかもしれないですね。確かお父さんは認められなくて泣いていたような記憶がありますけど。
私も自分の名前がすごく嫌いです。でも変えることがなかなか出来ない。親の思いと子の思いは必ずしも一致しないのかもしれません。
言葉
【害】と【碍】。実はこれってすごく難しい。言葉というものの本質に触れる問題。
言葉って心の声。心はどうなのと問われている。
哲学では言葉の既定と言う事が必要。
同じ言葉でも使う人によってブレていては、話にならない。
害は一般化されている。その一般化される過程で、問題ある差別感覚を言葉に、さらに載せた。差別が普通の時代に出来た言葉。
碍はちょっと誤字かと思ってしまう。以前紙面で使って、そういう指摘があった。その時説明したけれど、聞いた人は、ちょっと不愉快な表情をした。ムッとしたというか、そんな事も知らないのは、差別に対し、無頓着な人間だ。と指摘したように受け取られた。
この辺が難しい。
改正か、改悪か。
改定だと思うのです。改悪反対と言う言い方は、
言葉として綺麗でない。耳障り。
と言って、改正ではない。どう考えても悪くするのに、正すとは何事ぞ。
そこで、改定はどうでしょう。9条改定反対。
これなら筋が通るし、へんな感覚の言葉でもない。
Unknown
笹鶏さま。
「改定」いいですね。takeさんへのコメントを書いていて、でも「正」というのも変えたい側の意図が、十分入っているような気がしたので、膝を打ちました。
「同じ言葉でも使う人によってブレていては、話にならない。」
そのためには、1つの言葉の持つ意味を語り合っていくしかないでしょうね。とくに新しい言葉を作り出すときには、それ以上に心と言葉を使っていかなくてはならないでしょう。
takeさんとのやり取りはまた新しい発見を与えてくれました。
言葉を共有する、ということは丁寧なやり取りなくしては存在しないようにも思います。「そんなこと、分かるだろう」という思い込みはよくないですね。