教育基本法改正案、衆議院可決!

 教育基本法の改正について取り組みだしたのは2年ほど前のことです。わたしが主宰する「ち・おを読む会」でこのことをテーマに講師の先生をお呼びしての座談会を開きました。そのときも改正されてしまいそうだという事でしたが、ついにそのときが来てしまったのかという思いで、新聞記事を読みました。
 教育は誰のものかというと、少なくとも現教育基本法の下では、国民のものであり、それは為政者によって変わることのないものだ、ということが、私たち戦後生まれの常識であったと思います。しかし、この改正で、教育は国民の手から離れ、為政者が、国民に与えるものとなってしまいそうです。
 教育というと、教える者が教えられる者に与えるものという側面ばかりが強調されています。いま、教育について語られているのは、全てこの視点だと思われます。
 今の子どもがだめになった、それは戦後教育が悪かったからだ、だから教育基本法を変えよう、もっと大人が子どもをしっかり教え込めるように、国が目標を明確に立ててあげよう。ということでしょう。
 しかし、教育の主体は教えられる側にあると私は思うのです。たとえどんなに張り切られたって、こっちにだって、教えてもらいたいことと教えてもらいたくないことがあるし、いろいろ都合もある。教える人がヤな感じとか、今日はちょっと疲れてるとか、他にやりたいことがあるとか。あなたが大事だと思うことが、必ずしも、私が大事とは限らない。
たとえばこれが大人同士なら、当然通じる道理でしょう。「うんうん」とか聞いていながらも、「なんだか分けわかんない話だなー」とか「次の予定があるのに、まだ終わんないのかななー」とか思っていることもできる。話すほうだって、「ちょっと長すぎたかな」とか「今のは分かりにくかったか」とか「多分いっても分からないと思うけど一応」とか思いながら話しているわけです。
しかし、事が大人と子どもとなると、「聞く態度がなってない」とか「前を向きなさい」とかいうことになってしまうし、聞いてないからと大人はイライラしてしまう。その辺のヒステリックな子どもに対する怒りが、世の中に蔓延しているように感じます。また、その怒りの矛先が、なぜか子どもとその母親だけに向けられたりしている。
 今回の改正では、子どもに社会に対する貢献をちゃんとするように、ということと、親はしっかり子どもを教育しろ、それが親の義務だし、何かあったら、親の責任ですからね!というのをはっきりと打ち出しています。教育は、本人のためではなくて、社会のお役に立つため、さらに、国のお役に立つために国でやるんだ、そのために、まず国を大事にする心を育てるんだ、ということです。
 しかし、世の中にはいろんな人がいて、他人と理解しあうということは本当に難しいことだし、理解しあえなくてもまあ許そう、というのが「多様性を認める」ということだと思うのです。たとえ、なんだか気に食わない人でも、目をつぶれる範囲なら目をつぶった方がいいし、どうしても困るのなら、なんとか頑張って、説得していくしかない。または、どうしてもその人が出来ないのなら、自分が代わりにやってあげようとか、理解できない人同士でもなんとかうまくやっていくために知恵を出し合うのが、「民主主義」だと思うのです。だから、どんなに教育に目標を決めても、当然その通りにならない人はいるし、
たとえその目標からこぼれても、不利益を被らないように考えていくのが、政治の役割だと思います。
 それから、今回の改正で一番問題なのは、当事者である親や子どもが全く議論の場に加わっていないということです。たとえば、学校の保護者会やPTAの会合で、教育基本法の改正について話したところはあるのでしょうか。少なくとも、私の周りではありませんでした。私の友人達は、なんとかこれを知ってもらおうと頑張っていました。でも、よっぽど意識の高い人でなければ、「なにそれ?」という感じではないでしょうか。もっというと、現行法だって、分かっている人はごく一部の人でしょう。
 こんな状態で、思惑のある人たちで改正してしまっていいのでしょうか。
この問題は理解するのがとても難しい。パッと見は、何が変わるのか良くわからないからです。ニュースを目にしている保護者の人の大半は、「改正しても別に変わんないでしょ。」ということだと思います。何も変わらないなら、変える必要はないのです。変えようと思う人のなかに、何か現状を変えたいものがある、でもそれは、分かりやすいと困る、というものがあるのです。
 ぜひ身近な人と、教育基本法の改正について、話をして欲しい、何が、どう変わるのかを知って欲しい。そう思いながらいろいろと活動してきましたが、いま、途方にくれています。 

教育基本法改正案、衆議院可決!”へ2件のコメント

  1. ほい より:

    同感です。
    わたしも教育基本法改正案が衆院で可決されてしまったことをたいへん残念に思っています。

    「戦後60年たったから」「時代に合わなくなった」とはどういうことでしょうか?

    「これから日本は米国に従って戦争をする国になるのに、現行法では国よりも自分の命を大事にする腰抜けしか育たないので、困る。」という趣旨だとかんがえると、たいへん良く意味が通じます。でもこのことは口が裂けても言えないので、与党の説明は意味不明なのです。言わないけれど、「愛国心」や「宗教的情操」に固執する様子を見れは、分かると思います。この「改正」の本当の目的は、「お国のために命をささげる子どもを育てること」だと私は受け止めています。

    今回の「改正」(改悪です)によって、教育への国家の介入が、無制限に行われるようになります。文科省と異なる考え方を持つ教師も生徒も、排除されるでしょう。統一学力テストを行って結果を発表し、学区を自由化し、最優秀校とダメ学校を作り出す。絶対服従しない教師は遠方のダメ学校に転勤させ、ダメ学校の予算を削る。そんな学校に行く人はいなくなるので、学校は閉鎖、そのついでに気に入らない教師を排除する。これらのことは東京都で先行してほとんど現実になっていることですが、これを全国に拡大したいのでしょう。

    今回の教育基本法の「改正」は、戦前への回帰としか思えません。戦前の国家主義的な教育は恐ろしい結果を招きました。そのことについての反省や教訓が与党にはまったく無いように思われます。今は参院での野党の踏ん張りに期待しています。

  2. 佐々木ナオミ より:

    Unknown
    ほいさま。

    コメントありがとうございます。

    今回の改悪のねらいは、ご指摘の通りと思います。

    ただ、私としては、これまでの教育基本法にしても、当事者である一般市民とその子どもがその内容を知り、活用してきたということがなかったと思います。また、教育は子どもや一般市民のものであったことは、少なかったのでは感じています。

    昔は、先生に文句を言える親なんていなかったし、「義務教育」は「子どもが通う義務がある教育だ」とほとんどの人が思っていたころもありました。今でも、「学校にご奉仕しなければ」とか「先生方のご都合を考えて」「校長先生のご意向は」などの言葉が、保護者の間には聞かれます。

    戦後も、子どもをめぐる問題はたくさんありました。大きな問題の影で、苦しんでいる子どもやその親が、たくさんいたことでしょう。私の身近にも、たくさんいましたし、今もいます。

    私は「改悪」という言葉はあえて使いません。改悪なのか改正なのかは市民がその内容を知り、自分達の生活の問題として捉えたときに、その人が判断して欲しいと私は思います。そういう気持ちで、「教育基本法ってなに?」というお母さん達に、私なりに伝えてきました。

    今回の改正は、内容よりも、その手続きに大いに問題があると思っています。こんなに当事者が知らないままで変えてしまっていいのか。学校現場は、どこまでそれを知らせる努力をしたのか。市民レベルでの議論は尽くされたのか。

    民主主義がないがしろにされている現状には、恐怖を感じています。そういった意味では、すでに戦前なのかもしれません。

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